私はブログの記事を投稿する時「私は果たして正しいことをかけているのか?」とアホみたいに悩んだりする。
だけどさ、別にそこまで「完璧な正しさ」にこだわらなくてもいいんだよな。
そもそも「正しい」って何って。
私に「みんなにとって正しいこと」が書けるわけないだろって。
私が書けるとしたら「今の私が正しいと思っていること」だけだ。
別にその正しさに普遍性を求めなくていい。
「みんなにとっての正しさ」は正直、考慮する必要はない。
それは私が考えても意味がないことだから。
読んだ人たちが決めることだから。
私には介入できない領域だから。
どうでもよくないのは「今の自分の思考を正しい情報で忠実に正確に書けているか」だ。未来の自分が読んでも「今の自分の思考」がわかる様に書いているか、だ。
結局それが一番、読む人のためになる。
自分自身を欺いて書いた文章なんか何にもならない。
ただ、自分に対して忠実に書けばいい。変な見栄なんて張らなくていい。
自分はお偉い大学教授なんかじゃないんだから。
ただのしがない自分探求者なのだから。
「誰かを導こう」なんて自惚れた考えなんて、いらないんだから。
驕ってはいけない。
そして「あー自分なんて…」って、無駄に気に病んでも落ち込んでもだめ。
そうなってしまうのは変なプライドをもっている証拠だ。
「今の私にとって正しいこと」はもしかしたら、「未来の私にとっては正しくないこと」かもしれない。
だけど、もしかしたら「未来の誰かにとっては正しいこと」かもしれない。
そして、「今の私にとって正しいこと」が「誰かにとっては正しくないこと」であることが、その誰かにとって有意義な結果を導くかもしれない。
要するに…
その文章が正しいか正しくないかは見る立場によってコロコロ変わる。
ただ、私の文章に対する軸となるスタンスは
「自分に忠実に書いた文章によって、誰かさんの中で何かポジティブな反応を起こせたら嬉しい」ってこと。
その「ポジティブな反応」は、私の書いた内容を全肯定するってことなんかじゃもちろんなくてさ。
「あーこんなこと思っている人が存在するんだーなんか救われる」
「へーこんな考え方もあるんだー、考えたことなかった」
みたいな感じを誰かさんに与えれたら、それが私の文章がもちうる最大限の力。
そして、もしも、そんな「ポジティブな反応」が誰かさんの中で起きていても、私はそれを知ることができない。
もしかしたら、その反応が生じた誰かさん自身も気づかない場合もきっとある。
ただ信じるしかない。誰かの中で私の文章がポジティブに響くことがきっとあるって。
その信じる心だけが、私に私の文章を書かせるエネルギーを生み出すことができる。
私の文章を書き続けたいのなら…その信じる心を持ち続けて、燃やし続けないといけない。
信じる心がなくなった時、私は私の文章が書けなくなるだろう。
何事も「信じる心」が真髄となっているのだろう。
「信じる心」を失った時、その「信じる心」で今まで生み出していたものは、生み出せなくなる。
それは決して文章だけの話しではないと思う。
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