悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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「現状に満足しない=苦しまなくてはいけない」じゃないからね?

前回と同じような内容が繰り返されているけれど、少し前の下書きが残っているので、今回完成させて下書き供養します(初めて使ったよこのワード)


*******


苦しんで頑張ろうとする心意気をやめたい。

楽でいいんだよって、自分に言ってあげたい。

「苦しまないと、頑張ることにならない」という考えの呪縛から逃れたい。

自分は楽したらダメだ。
幸せを感じたらダメだ。

なんて考えはまちがってる。

「現状に満足したらだめだ」

「楽してはダメ、苦しまないとダメ」

をセットにして一括りにしたらダメだ。

それぞれを切りはなさないと。

「現状に満足しない=苦しまなくてはいけない」
この呪いのようなイコール鎖を壊さないといけない。

現状に満足せず、向上心を持つことは悪いことではない。

むしろ、いいことだと思う。

例えば、母親が子供の存在があるだけでは満足せず、自己実現を目指すことは私は悪いことではないと思う。

初めは、「子供さえいたら私は幸せだ」と思っている子どもがいない人がいたとする。

そんな人だって、「子どもがいる」という望みが手に入れば、さらなる望みを手に入れようとする。

それが人間の本能だと思う。現状に満足せずに高み高みへと目を向けること。それはきっと悪いことじゃない。

「這えば立て立てば歩けの親心」

この諺は、そんな人間の本能を、本来の意味ではないかもしれないが、表していると思う。

私はもう馬鹿みたいに自分を苦しめないようにする。

やっと気づいたのです。自分自身を大切にしないといけないことに。
年をとったら、昔みたいに体に無理をさせたら、身体からすぐに仕返しをされるのです。

そして、自分がしたい事もするのがままならなくなる。

自分をないがしろにして自分を雑に扱うと、結局足止めをくらったり遠回りになる。そして自分のしたいことをするのに気づいたら体が耐えれなくなっていくんだ。

自分の体だけじゃない。自分の精神も。

自分の精神も責めることは良くない。

私は「自分はなんて駄目なんだ」みたいに自分を責めることが昔から癖のようにあった。

そう思わないと現状を受け入れたことになり、上を目指せなくなる気がした。

だけど、それは間違った思考回路だとやっと気づいた。

結局「自分はなんて駄目なんだ」という感傷に浸ること自体が沼にはまってしまっている事だった。

無駄に、前へ進めずに足止めをくらい、無駄に、エネルギーを消費することだった。

これからは、私は自分を責めないように思考回路を改めたい。
いや、絶対改める。

自分を責める行為は後ろを向いて、過去の自分を指をくわえながら、ぼんやり眺めている行為に他ならない。
そんなことよりさっさと前を向いて歩く。

後ろを見続けるのは、過去を手放したくないからだ。忘れたくないからだ。
だから、何らかの形で残しておけば、未練がましく執着しなくてすむ。

なかなか捨てれないものは写真に撮って残しておけば捨てる事ができる・・・とよくいわれる。

きっと「過去」も同じだ。

形として残すことによって自分の中から出すことができる。

消滅させるのでなく、形として出すことが本人にとっての1番の救済だ。

だから、私は過去をどんどん文章にしていきたい。

そうしたら、きっと過去に執着しなくてすむ。重い荷物で苦しむ私を救済することができる。

過去の物であふれかえった部屋を片付けていかないと。

文章という形で残して、どんどん自分の中をすっきりさせないと。

きっとそうすることで、身軽に前へ進める。

今をより快適に過ごせる。今を全力で生きれる。

もう、昔の様にずっと重いリュックを背負って動くことはできない。
リュックの中身をどんどん手放していかないと。

形にのこして・・・形にして産み落とすんだ。

「死ぬときは手ぶらがベスト」

隠れた名曲だと心から思っている宇多田ヒカルの曲「忘却 featuring KOHH」 にこんな歌詞がある。

書いていて、ふと、自分の持っているものを全てを出し切って死ぬのが理想の死に方だと言いたかったのかな、なんて思った。

人間は、未来に希望を見出すために、しばしば、今に地獄をおく。

未来の天国を信じるために今を地獄や修行の場だと設定する。

そんなの、多くの宗教がつかっている今を絶望しないで生きるためのカラクリじゃないか。

自分の今をわざわざ苦しめるのも、そんな潜在的な心理の為だと思う。

今の自分に満足しながら・・・かつどこかでは満足せず・・・今に幸せを感じながら、さらに未来にも幸せの光を見る。

そんなことが可能だろうか。

いや、きっと可能だ。

だから私は自分を大切に、今を大切に、そして今あるものを当たり前だと、ないがしろにせずに、今を苦しむことの虜にならないように、今を精一杯生きれるように・・・少しずつなっていきたい。

自分の幸せのために既存の宗教を利用しないのなら、自分で自分に合う宗教をつくっていくしかない。

過去の同じようなことでもがいた人々が血でかいて残した結晶を敬意を忘れず拾い集めて、私は私の指南書をつくっていくんだ。

いつかそれが誰かを救う結晶の一つとなれたら、こんな素敵なことはないだろう。


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引きこもり生活が終わって調子が悪い

今日は調子が悪い。

多分色々なイベントが始まりつつあって、外用に自分を合わせ過ぎた。

人って、やっぱりバランスが大事でさ、今まで引きこもってたのに、いきなり外用にテンションを上げすぎると反動がくる。

コロナ疲れ疲れってよく聞くけど、確かに気持ちは分かる。

だけど、私の場合だとむしろコロナになる前って忙し過ぎたんだなって引きこもり生活を通して感じた。

まぁ、コロナで一生懸命働かれている人の事を考えると、何とも呑気な話で心から申し訳ない話なのだけれど。

だけど、私に出来る最善の事は子供達と一緒に家に引きこもることだったから、なんとも、贅沢な話しな訳です。

引きこもることに罪悪感を感じなくていい・・・ってなんだか新鮮な気持ちだった。私はもともと引きこもるのが苦痛でたまらない性格だ。引きこもっている間に、他の人は色々と外に出て何か有意義なことをしている!みたいなプレッシャーと焦りが生じたからだ。

だけど、コロナ禍の引きこもりは、みんなが平等に足止めを食らっているから、そんなプレッシャーや焦りは生じない。

だから、意外と私はのびのびと引きこもり生活を送れたのです。

それで、いざ、通常の日常生活が始まるとなると、もうコロナで慣れ過ぎた生活から、切り替えるのが意外と大変なのだな・・・と。

他人と話すのって、意外とエネルギーがいる。私の場合は、ママさんなのだけれど。専業主婦のママだって結構コミュニケーションって生活において重要なのですよ。

きっと、私はなんとか繕っているけれど、人と関わるのが嫌いではないけれど、色々とそのコミュニケーションに無駄に消耗しがちで、できれば一人の世界にどっぷりと浸っている方が得意だし、好きなのだろう。

そして、私の精神はきっと繊細なんだと思う。

私は昔から自分は何となく、ちょっと油断したら、メンヘラの方向にすぐになだれ込んでしまうような、自分の気質にはとっくの昔から気づいでいた。

だから、ブログとかでも、読んでいて気持ちが落ち着いたり、共感することが多いブロガーは精神疾患を持っている場合が多かったりする。

なんて言うかな・・・精神状態が不安定になりがちな人って繊細すぎる人が多い気がする。

繊細な人ってさ、重い荷物をたくさん摘んだ自転車を走らせてる人って感じ。

繊細な人って、重い荷物を自転車でたくさん運ぶことができる人なんだと思う。

重い荷物を持っていても、器用に自転車を運転できる能力を持っているから、重い荷物を運ぶことができる。

だけど、いくら重い荷物を運べても、やっぱり限りはある。

人間の今の体は、そんな能力に見合うような進化はまだきっとできていない。

人間のもつ肉体ではその、重い荷物、すなわち情報処理を支えきれなくてさ、オーバーヒートして壊れそうになる。

繊細すぎる人は何かが発達し過ぎて、負荷をかけ過ぎて、その処理を脳が支えられないとき、バグが生じるんじゃないかな。

重い荷物をもっているから、普通の人より転んだらなかなか起き上がれないし、大怪我をする可能性も高い。繊細で、能力が高くて、頑張り屋さんが、きっと危ない。

そんな人が、うつ病のような精神病になったり自殺しちゃったりするのかもしれない。

人間の悲しい進化の誤算だったのかも。容れ物(肉体)の進化が間に合わないぐらい、中身(精神)が発達してしまった。

なんて、自分を美化するような書き方をしてしまったのだけれど、なんて言うか・・・私は私のような繊細で頑張り屋さんな人が好きなのです。

自己愛が爆発しているような内容を書いている事は百も承知なのですが、私はもう自分を無駄に責めたり卑下するのは止めるよう努めることにしたのです。

自分を愛することが、自分以外を愛することに繋がる・・・ということにやっと気づいたので。

駄目で情けない自分でも愛していきたいです。

今日はうつ気味で、理想とは違う自分が嫌になったり、何にも気力が湧かなかったけれど、そんな、自分が嫌になった自分もひっくるめて・・・自分を許してあげたいと思ったのでした。

理想を語るのは幼稚園児でもできる。自分の理想を実行しようとしている人が主役だ。

オリンピック終わったけどさ、オリンピックを例えにして話がしたい。

オリンピック見る立場の人ってさ、自分ができもしないくせに、いちゃもんつけるのよね。

例えば体操を例にするとさ、「あー失敗した!駄目やん!」「足が曲がってる」とか何だって好きにいえる。

冷静に考えたらさ、全く運動もしないし、できないメタボ気味の中年の人がさ、テレビに向かって一生懸命な若者に啖呵切ってるのを想像したら、なんとも滑稽だなって。

だって本人は逆上がりすらできないかもしれないのに、オリンピック選手にイチャモンつけるって。

よく考えると笑える。

スポーツも創作物も同じだな、と。

見るだけの観客はなんとでも好き勝手いえるんですよね。当の本人の苦労や努力を完全無視で。

「この漫画は絵が下手」「この漫画はストーリーがつまらない」「文章が下手」などなど。

これって、まんま、オリンピックの選手に向かってぐちぐち言う口うるさいオーディエンスと同じだ!って。今更気付いた。

あーなんだってそうだ。イチャモンをつける人は、何もできていない人が殆どなんだ。何もしていない。ただの観客の一人。

逆上がりすらできないのに、体操選手に向かってダメ出ししている人と同じだ。

実際にやる立場の人間がどんなに大変かなんて、何一つ考慮に入れず、理想だけを勝手に語っているだけ。

そうだ!そうなんだ!そんな声なんて真剣に受け止める必要なんて全くないんだ。立っている場所が違うのだから。ステージに立っている人と、観客席に座っている人は全く立場が異なる。

オーディエンスはなんでも好き勝手いえる。なんだっていえる。自分は何一つしなくたって、できなくったって、なんでもいえる!そんな人間のいうことは「そういう人間が言っている事」としてとらえればいんだ。特に自分のパフォーマンスに対しては、具体的に参考になる内容は大体ない。

自分のパフォーマンスの為に耳を傾けるべきは、同じような経験をした者。その人だけ。その人だけが真に耳を傾けるべき存在なんだ。

何でこんな簡単なシンプルな事になかなか気づけなかったんだろう。

テレビゲームだってそうだ。

実際にできなくても、他人がやっているのを見ながらあーだこうだはなんだって言える。

うちの子供だって理想なら言える。

例えば、夫がやってるマリオのゲームを見て色々口うるさくアドバイスしている。

自分では全くできないのに!

「そこジャンプ!そこに投げる!あー何でもっと早くジャンプしなかったの!」

そんな感じだ。幼稚園児だって自分の理想を語る事はできる。

自分ではできないのに、偉そうに自分の中の正論を語ってドヤ顔している人が何と多いことか。

「自ら正しいこと(理想)を実行できる」「正しいこと(理想)が分かって言える」は必要十分条件じゃない。

二つは必ずしもリンクしているとは限らない。

「自ら実行していて、正しいことを言う」人の言うことのみ自分のパフォーマンスに対して真剣に参考にする価値がある。
しかもその正しいことだって、その人の中の正しいこと、理想であって、それがパフォーマンスする側にとっての正しいこと、理想と一致するとは限らない。
どんなことだって、自分の答えは自分の中にしかないんだ。

色々な意見を聞くときは、その意見を言う人間がどういう立場の人間かを考慮して、自分の中の参考フォルダーに入れる必要がある。
何もかもすべての意見を一緒くたにして同じフォルダーに入れたら混乱して改善のための効率が悪くなるのだから。

そして、意見される何かをつくりだしている本人を尊重する事を忘れないようにしなくてはいけない。それが他人であっても自分であっても。

自分の理想を語っているだけの人は観客だ。
自分の理想を実行しようとしている人は主役だ。

そう、実際に舞台に立って一生懸命何かを生み出している人が主役なんだ。観客が何を言おうと、舞台に立っている人がその場の空間を作りだしている立派なクリエイターであり、輝いている主役なのだから。

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