悩みすぎな私の子育てライフ

ある主婦の生存軌跡を残すメモ

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「信じれる幸せ」をつくること。それがその人にとっての幸せ。

今回も頭の中で水泡のように浮かんだ思考のメモ

「幸せってなんだろう」みたいな陳腐な問い。

私もしょっちゅう頭の中にこの言葉が浮かんでは、思考の渦にのまれることがある。

で、今日なんとなく、はっとたどり着いた答えは「幸せってなんだろう」っていうのは、結局、自分以外の場所では見つからない。

自分が自分の「幸せ」を創るしかないんだって。

だから、「幸せ」は一生懸命自分以外の場所で探しても見つからない。

だって「幸せ」は自分で「これだ!」と信じることができるものこそがその人の「幸せ」だから。

例えば「蝶々って何?」って問い。

それぞれの人の頭に思い浮かぶ蝶はそれぞれ異なる。

モンシロチョウのような蝶をイメージする人もいれば、アゲハチョウのような蝶をイメージする人もいる。

もしかしたら、自分で考えた空想の蝶を思い浮かべる人だっているかもしれない。

じゃあ、「どれが本物の蝶?」という問いに正解はあるのか。

どれが正解でどれが不正解なんてあるのか?

いや。そんなのはない。

それぞれの思い浮かべた蝶、全てが正解だ。

「何が正しい本物の蝶か?」っていう問いは不毛だ。

「自分が蝶だと信じれるもの」が自分の中の蝶だ。

「真の神は何か?」っていう問いも同じような類の問いだと思う。

自分の中で「これこそが神だ!」と信じれる神がその人にとっての神だ。

いきなりインターホンで赤の他人から「私の信じる神を信じろ」と言われても、信じれなかったら、それはその人にとっては神じゃない。

自分が心から信じれる神。それが、その人にとっては神だ。

それは、何かシンパシーを自分に感じる概念だったから、信じれる事だ。

運命の出会いのようなものだ。

その概念が信じられなくなった時、それは自分にとっての神ではなくなる。

なんだか、結婚と似ている。

結婚するときは相手を心から信じれるパートナーとして一生一緒に暮らすことを誓う。

だけど、相手を心から信じれなくなった時、もう心からのパートナーではなくなる。

そして、離婚して別々の人生を歩み出す。

だけど、短い間だったけど、その相手が心のパートナーだったということは事実だし、その人の人生の一部を形成していた。

神もきっと同じだ。

自分が信じれる神に出会えた。そしてその神とともに自分の精神を形成した。その神をいつか信じれなくなる時がくるとしても、その神が自分の精神や生活の一部を創ったことは変わらない。

自分が心から信じれる事に出会える。

この出会い自体が運命の出会いであって、その「信じれる事」が正しいか正しくないかが重要でない。

「今の自分が信じれる事」その出会い自体が、自分の精神的な部分の形成のきっかけとなる運命の出会いだ。

精神は行動につながる。行動は生活につながる。生活の連続が人生だ。だから結局はその人の人生を形成することに繋がるんだ。

信じれるものがあること。

「心から信じれるものがある」

この存在がその人の「幸せ」の概念の形成の一翼を担っているのかもしれない。

「心から信じれるもの」

この頑丈な土台のような存在があって初めて、その上に色々なものを積み上げて何かを形成することができるのだから。

何かを形成し続けることのできる自分を見つけた時、すなわち、自分の役割を見つけた時、その役割に精一杯生きれることが、その人にとって「幸せ」なのかもしれない。

「幸せ」はそれぞれが創り出す概念であり、その概念にそって生きることも「幸せ」・・・と意味合いが異なるのに同じ言葉を用いるから多少混乱する。

だけど2つの「幸せ」に共通する事はどちらも、まとまったすべての人に共通する形の塊として存在するものじゃないってこと。

どちらの「幸せ」もそこらへんで売ってない。そこらへんに落ちてない。他人からもらえない。自分で作り上げて、自分で感じるしかない。
「幸せ」を求めておろおろとさまよっている人は、自分以外の場所で探し回っているのかもしれない。
自分と向き合うこと。自分の本当の心をないがしろにしないように、しっかりと見つめてあげることが・・・きっと大切なんだと思う。


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子どもは経験の全体数が少ないから刺激に感じたことはよく覚えれるんだな

最近、子どもがゲームにハマっている。

夫がゲーム好きなので、よく一緒にやっているのですが、まー子供の方が記憶力がすごい。

大人なんかより、細かいダンジョンの内容とか正確に覚えているのですよね。

で、はっと思いついたわけです。

経験の全体数が少ないから、より印象に残るんだと。

10000分の1より10分の1の方が、より印象に残りやすいってこと。

例えば心電図の波形のような線をイメージする。

より振れ幅が大きい刺激が強い。
振れ幅が小さいと刺激が弱いとする。

大人は、今まで生きた時がながいから、波の数も多い。

だからね、多少の刺激の出来事では、もう他の無数にある刺激の山の高さに紛れて印象に残らない。

子供は、まだ波の数が少ない。だから、大人にとっては、大した波の振れ幅でなくても、子供の全体で見たら高く見える、つまり刺激的に感じるんだ。

なんだか、ブログのPVの棒グラフに似ている。

ブログを始めてPV数10の日が10日ぐらい続いて、いきなりPV100とかの日があったら、その1日はかなり刺激的に感じる。グラフもその日だけ「ドカーン」っと高くなっているようにみえる。その出来事は実に刺激的だ。

だけど、200記事とか書き続けていると、もう、グラフは長すぎて、100PVの日なんか、全然印象に残らなくて、他の記事に埋もれて記憶にも埋もれる。

そして、むしろ100PVないと当たり前になって少なくなる方が耐えれなく感じるのかもしれない。

・・・なんて、ブログを始めた時期をぼんやりと思い返したりした。

長く生きるって刺激が均等化することかも。


期間が短かったらよく目立ったグラフのギザギザも、期間が長くなったら、そのギザギザは目立たなくなる。

長い長いリボンのように長々と続く棒グラフ。

子供は、視野が狭いというか、もっているリボンが短いんだ。

一つ一つの出来事がずしんと重い。自分に影響する割合が大きい。

大人は持っているリボンは長いけど、常に全体を見渡す視点ではなく、時々は狭い視野に切り替えれたり、視点の位置を自由に切り替えれると、もっと子どもの心がわかるのかもしれない。

子供の視点に合うように、間近でリボンをみたら、いいのかもしれない。

ああ・・・でも・・・もう大人は、それが、全体で見たら大したことない高さだって知ってしまっている。

やっぱり、一度知ってしまったら、知る前にはもどれない。

経験したら経験する前にはもどれない。

子どもの、純粋な未知のものとの刺激的な新たな出会いは、大人の周りには、同じようにそこら辺にころがっていない。

大人は自分から自分の知らないことを見つけていかないと。

そして、刺激を自ら探さないと。
身を滅ぼさない刺激を。

そうしないと・・・何かが終わってしまうような気がする。刺激を全く感じなくなったら、もう終わりだ。心電図が真っ直ぐになるように。

心臓の鼓動のように、好奇心を動かし続けたい。

そんなことを、ゲームをしている夫と子どもも後ろから眺めながら考えたのでした。

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今できる最善を尽くしてやれば間違ってもいい。

なんか、ここ最近ネガティブな記事ばかり書いていた気がする↓

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自己嫌悪ってやつ?
だけどさ、なんだか少し吹っ切れた。私は私でできることをやっていくしかない。
とにかく、このブログは力まずに自然体で、自分に素直になって書いていけたらいいな・・・なんて思う。

私はブログの記事を書くときに「間違った事はかいてはならぬ!!」

みたいな、自分にすごいプレッシャーをかけちゃってたのですよね。

「絶対に間違えない」なんてできるわけないのにさ。

いや、私だってちゃんと自覚はしているつもりですよ「私は間違える」って。未熟だもの。

でも、私の「まじめ&変に完璧主義」という性格がいつものように、地面に太い根を下ろすように「失敗するな!失敗するな!」と、私を縛り付けるのですよね。無駄に。

そうして、私はいつも足止めを食らう。

そして「間違えないこと」にこだわりすぎて、文章を書くのが辛くなってた気がするのですよね。文章を書きたいのに、書くのが辛いっていう。

きっと、とうの昔からなんとなく気付いていたのですがね。ブログを書く事は自分の未熟さをさらけ出して、残してしまうってことに。

そこをなかなか受け入れ難い自分もちょっとだけ存在するのですね。受け入れてたつもりなのにさ。

私は今の自分とは違う考えの未熟な内容の記事を沢山残してしまっている。

でもね、それってしょうがない。

いくら最善を尽くして書いたとしても、「その時の最善」にしかならないのですもの。

未熟な私がいくら一生懸命書いても、「完璧」には届かないわけです。

どうしても、後から読んだら間違ったことを書いてしまうのです。

例えばこの記事↓

www.hiekashi.com

のこの文章

今、学校教育を根本的に見直さないといけない時が来ているのではないでしょうか。オンライン動画を効率よく用いて、ネットの方が効率よくできる仕事はそっちに回せばいいと思うのです。先生に全てを任せるのではなく、みんながハッピーになれる効率の良い教育システムになればいいなと思うのです。

今の学校制度は変えた方がいいって話と『100分de名著』は本当に素晴らしいって話 - 悩みすぎな私の子育てライフ


この記事で「通常から小学校の授業オンラインでいいやん!」
みたいに言ってますが、子どもが実際今オンライン授業を続けてみて、弊害がちょこちょこあるのに今気付いてしまったりするのですよ。

例えば、オンライン授業は「目が痛い」「勉強についていけない子を先生が見落としてしまう」とかね。実際子どもも「学校に行って授業した方がいい」って言ってるのですよね。

まあ、要するに、この記事で書いていた事は今の私から言えば、「ちょっと短絡的に考えすぎや!」なのですよ。

今の私が他人だとして、この記事を読んだとき、記事に対してコメントで「いや、それはちゃう!」みたいな書き込みをしてもおかしくないわけです。

要するに今の自分からしたら、過去の自分は間違っていたわけです。

でも、それって仕方がない事なのだと思うのです。 

だって、この記事で書いてある事は、その時の私が思ったことを正直に赤裸々に書いた記事なのですから。

その時の私を反映した形として存在するのです。

要するに、当時の私は今の私と比べると「未熟」だったわけです。

でもね、それはしょうがない事だし、悪いことではないと思うのですよね。

もし、私が常に完璧で間違えのない文章を書けるのだとしたら、もう私は成長できないってことです。

寧ろ、未熟だと気づけることが成長している証なのです。

まぁ、そもそも「完璧な文章」なんて存在するのかって話ですが。まあ、この話は置いておきましょう。

私は未熟で、間違ったことをたくさん書いているかもしれないけれど、その時、自分のできる範囲で自分の最善を尽くして書いたのなら間違えてもいいのです。

これは私のブログですから。要するに私の精神的な思考の軌跡、宮沢賢治的に言うと「迷いの跡」なのですから。

「あ!あの過去に書いた記事のこの部分、今と考え方が違う!」とか言って気づくたびに修正していたら、訳の分からないことになってしまいます。

過去の記事は未熟な内容であたりまえ。

お金をもらって読んでもらうような類いの文章じゃ決してない。私のブログは。

「自分の精神の成長のために、その足跡を残す」ツールとして私はブログを活用しているわけです。

そして、私はそれこそがブログの醍醐味だと思うのですよね。

「生活に役に立つ実用的な内容のブログ」とは違うのです。

実は私は過去にそんなブログを目指していることもありました。

だけど、そのブログの道は捨てたのです。

出版したり、仕事として文章を書くのであれば、相当の覚悟やら、一部の人に対して不利益のないような内容を書かないといけないかもしれませんが。

そんな大層な社会的な商業的存在の文章とはかけ離れた存在なのです。私の文章は。

自由でいい。

私は最低限「人を苦しめたり悲しませるような文章は書きたくない」という自分のポリシーを守りながら自由に文章をかけばいい。

そう思ったら、もっと身軽に、気楽に文章が書ける気がしました。

間違ってもいい。間違いに気づいて、そのたびに、「あーでもないこーでもない」と軌道修正しながら、なんとか前に道を切り拓いて進んで行ければいい。

決して間違いを気づかないふり、見ないふりじゃない。未熟な過去の自分を優しく受け入れた上で、前進していけたらいいな・・・このブログとともに。

親が子供の失敗に寛容な姿勢をとって成長を促してあげるようにさ。自分に対してもそうしてあげたい。

と生ぬるいことを考えたのでした。

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