人はいくら頑張っても車を持ってない人には移動の速さ、エネルギー量では敵わない。
いくら「私は車がなくても、やっていけるのよ!」
って思っても、車があるのと無いのとでは、1日に使用可能な行動量とエネルギー量は全然異なる。
例えば、幼稚園に送りに行って、銀行に行って、スーパー行って、家に帰って、幼稚園迎えに行って、習い事に送っていって家に帰る・・・という1日があるとする。
車があったら、楽々な内容でも、車が無かったら、この1日は疲労困憊、ヘトヘトになってしまう。
もう夜の9時には、ベッドにバタンキューだ。
だけど、車があったら、同じスケジュールの1日で夜の9時になっても、「よし、ブログでも書くか」ぐらいのエネルギーの余裕があって、素敵な記事を書けるかもしれない。
車があるのと無いのとでは全然違う。
車があると、エネルギーも、時間にも余裕ができる。
いくら、オリンピックに出るような脚力を持っていようと、車の利便性には敵わない。
車なら「ひゅんっ」と楽チンに行ける場所も、車がなければ「ひーひー」いって到着する頃にはエネルギーも時間もかなり消費しているのだ。
さらに、何処かに行ったら家に帰らないといけない。「ひーひー」×2だ。
世の中にはある手段を持っているだけで、全く違う次元の効率とスピードを得ることが、どれだけあるのだろう。
だけど、悲しい事に、みんながみんな車を持てる訳じゃない。
「車自体を購入するお金がないから」
「事故するリスクがあるから」
「環境に悪影響だから」
「維持費がかかってとても車を持てないから」
「免許をとりにいく時間がないから」
などなどの障害、懸念を突破した人が車という手段を得る。
車という手段を持っていたら、格段に距離的に行動範囲が広がる。動きも速くなり、時間も節約できる。
もうね、いくら足掻いても、移動に関しては生身の人間は車様には敵わない。
「身一つで私は闘うんだ!車持ってる奴と同等に闘う!」
・・・といくら、闘志を燃やしても、敵わないものは敵わない。
車という手段をもっている奴には非力な人間は敵わない。
私はこんな例え話をして一体何が言いたかったのかというと、
「私は、とある手段を持っていないで、とある手段を持っている人たちと同等になろうとしている愚かな人なのかもしれない」
という、一抹の不安の存在を表したかった。
私は別に「車という手段を持ってない人」をディスりたい訳でも、マウントをとる材料にしたい訳でももちろんない。
もし、そう受け取った人がいるとしたら、私の伝えたかったことは伝わっていない。
その手段をもっていない、もてないのならば、その状況を受け入れて、できる範囲で色々と模索して工夫すればいい。そもそも私はそんな話をしたかったのではない。
私が言いたかったのは、「車を持っていない人が、車を持っている人と同じように張り合おうとする虚しさ」だ。
しかも「車が欲しい」という気持ちに向き合わず、見ないようにして自分を騙し続けている。
まるで、葡萄が取れないからその葡萄を酸っぱいと思い込もうとするキツネだ。
しかも、「けっ、車なんか必要ねー」と、鼻っから手段を得ようとしないくせに、同じ1日の行動量をしようと試みる愚かさだ。
ひーひーいいながら、車を持っている人と競うことを諦められずにいる。
追いつけるはずがないのに。
車を持っている人の「幼稚園送って、スーパー行って、銀行行って、歯医者行って、ヨガ教室行って、幼稚園迎えに行って、習い事つれていって、家に帰って、子供が寝た後に、勉強する」
という1日を、車を持っていない人が同じように出来るか?
もちろん手段は車だけじゃない。自転車だって、電車だって、新幹線だって、その手段があるのとないのとでは、もう、全く何もかもが違うのだ。
手段は武器だ。
手段を持っていないで、同じ土俵に立とうとすることは、素手で剣と闘うようなものだ。
手段という武器を持っていないのであれば、立てない舞台もある。
その舞台に立ちたいのならば、まずは武器を手に入れて、その武器を使って経験を積まなければ。
まずは武器を手に入れないと、差はどんどん広がるだけだ。
素敵な音楽を生み出したかったら、まずは何か楽器をえなければ。
素敵な絵を生み出したかったら、まずは筆をえなければ。
それも特別な楽器や筆を。
もう、今の時代は手段の進化が著しく、すごいスピードで何かを生み出している人は生み出している。
私はきっと、その手段すらも知らない。手にしていない。
そのくせ、きっと、車を手に入れようと努力もしない。車によるリスクを受け入れてみようともしない。
「車なんかなくてもいいんだいっ!」
・・・なんて、いつまで言っているのだろう。
車というキラキラした存在を見ないようにしている。
手に入れたいのなら、しっかりとその気持ちに向き合わないといけない。
何事も大体自分の敵は自分の中にある。
車を手に入れるために、何かを犠牲にしないといけない。
大体、上へ上へ行こうとすることに必要なのは「他の人の労力を踏み台にして、上へよじ登る」図太さだ。覚悟だ。
「踏み台になんて出来ない」なんて考えてしまう優しい人は上にはいけない。
「便利なもの」は何かの犠牲の上に存在しているのだから。
自分のエネルギーを節約するってことは、他からの代替のエネルギーを使っている場合が殆どだから。
自分以外の他の色々なエネルギーの力を贅沢に浪費しながら、私は自分のエネルギーを「自分の目的」の為に大事に蓄えて費やそうとしている?
「自分の目的」は一体どれだけ価値のあるものなのか?
それは達成してみないと分からない。
ただ、明らかなのは、世に言う、芸術性が高い創作物は、自分以外のエネルギー源があって、その力もあってこそ存在し得た結晶なんだってこと。
他の人がせっせと人生の大半を農作物を育てるのに費やしている間に、自分はじっと動かずに机に張り付いて創作し続けたのだから。
たった1人だけの力じゃ、凄いものは作れない。
それは確かな真実だと思うよ。
でも、みんながみんな、「便利なもの」を手に入れて、自分以外のエネルギーを贅沢に使い、自分のエネルギーを温存して、一体何を目指すのだろう・・・っていう気もする。
便利なものに極力頼らず、妥協点を見つけて、自分のエネルギーを最低限の生活の為に惜しみなく使う生き方も、立派な・・・一つの生き方な気もするのです。
こうやって、私はなんだかんだ言って、ぐるっと一周して元いた場所にもどってくる。
そうして、結局今の現状に甘んじる状態が続いていく。
それでも、少しでも螺旋状に上昇してることを信じて、色々考えている。
そして、行動に少しずつ反映していけばいいなって思う。
「やりたいことがある」という強い想いは、尊い存在だと信じているから。
その想いは・・・最後の最後まで、手放すことはせずに大事に持って歩き続けたい。
手放す時は、命が終わる一瞬がいいと望んでいる。
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