「失敗した経験」をしたら、すぐにそこからピントをずらさないといけない。
違う対象にピントを合わせるか、より俯瞰的にみれるように全体にピントを合わせるかのどちらか。
ずっと「失敗した経験」にこだわったり見つめちゃだめだ。
人生を通して一つのモザイクアートを完成させるとしたら、「失敗した経験」は人生が終わった時には、その作品の一部の小さな要素になる。そうなったら、もう「失敗した経験」は「巨大な人生作品の『失敗した経験』という名の一部分」だ。
もしくは、コラージュ作品だとしたら、一つの立派な素材だ。
「失敗した経験」はなかったことにするんじゃない。
そもそも、そんなことできない。もうそこに存在しているから。
しっかり「失敗した経験」を見つめて、観察して、何かのために「活用」するために、機会を窺うしかない。
「失敗した経験」の意義なんて、人生が終わる時に決まる。
そもそも「失敗した経験」なんていうのも、勝手に主観でラベリングしたに過ぎない。
「失敗した経験」「苦い経験」「情けない経験」「恥ずかしい経験」
って、勝手にラベルを貼っているだけだ。
それぞれ、今の自分を今の自分たらしめる、大事な一部だ。
人生を積み重ねていくことは、モザイクアートの素材の一枚一枚を増やしていきながら、作品を完成に近づけること…そんな感じかもしれない。
その一枚一枚を「人生」という作品のどこに使うかはその人次第だ。
メインに置くか…背景に置くか…。画竜点睛のような位置に置くか…。
…だから…たった一つの通り過ぎた経験なんかに、ずっと身と心を縛られてちゃあいけない。モザイクアートの素材の一つの写真をずーーーーっと眺めていたってどうしようもない。
ある程度、余韻を味わい尽くしたら、次の段階に進む。いたずらにこだわったらだめだ。一旦その経験は横に置いておいて、作品をコツコツつくるか、他の素材を探すことに集中し始めた方がいい。
「失敗した経験」を置いとくなら分類して置いとく。今使うなら適した箇所に使う。その判断をパパッとできたらなぁ。
その判断基準を人生の早いうちから確立できたら…きっと人生という作品は、より大きく大きくできるのだろう。
だから、頭をすぐに切り替えられる、オンオフがしっかりできるってことは、人生を効率よく生きるためのコツだと思うよ。
内容はともかく、大きな作品を作りたいのなら、いかに気持ちの切り替えを効率よく速くするか…が大事な気がする。
内容にもしっかりこだわりたいのなら、目指す作品の方向性に適した秩序の形成にも力を入れないといけない。
その塩梅で、作品のテイストが決まってくると思うよ。
こう考えると、本当に人生はアートのようだ。
このところずっと、私は生き方を学んでいるつもりだったが、最初からずっと死に方を学んでいたのだ。
- レオナルド・ダ・ヴィンチ ‐
出典:
レオナルド・ダ・ヴィンチのこの言葉の真意が少しわかった気がした。
最近レオナルド・ダ・ヴィンチの名言が胸に響く。
また、いつかこの本を読んでみようかな↓
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