私が子どもの頃、子どもより大人の方が何でもいっぱい持っていると思ってた。
でも、最近、逆に、子どもの方が沢山もっているものが山程あるって気づいた。
子どもがたくさん持っているもの。
それは、「感受性」「可能性」「エネルギー」。この三つが、今のところ私の中で思い浮かぶ。
まず感受性。
感受性が強いってことは、色々な引力に引っ張られやすいってことだと思う。
何でも敏感に引っ張られる。
まるで強い磁石のよう。
例えば「美味しい!」って気持ちだって、おそらく大人が感じるより、ずーーーっと大きく感じる。
だから、きっと、大人がお菓子を我慢するより、子どもが我慢する方が相当辛い。
「遊ぶの楽しいー」って気持ちも、大人よりずーーーっと大きく感じるんだ。
私は自分が子供の頃、大人は凄く我慢強いんだと思ってた。
でも、大人になってそうじゃないって知った。
ただ、大人は感受性の磁石が弱くなっただけだった。
あと、色々なことに慣れきっているだけ。
大人は実は我慢強くなんてない。
ただ、「子ども程強く感じない」だけだった。
子どもは色んな欲望をはらんでいる。
特に身体的な欲望は思春期にどんどん大きく溢れていくだろう。
食欲、性欲。
この二つの大きな欲望の取り扱い方法の獲得は若者の試練だ。
その溢れるような欲望とうまく付き合う方法を模索しながら、さらに高次的な欲望を満たしていく準備をしないといけない。
それは、「マグローの欲求5段階説」でいうと、上部の三つ、親和欲求、自我欲求、自己実現のような欲望たち(下の図参照)
とにかく、若い頃っていうのは、バランスを取るのが大変なんだ。その上、動き回る事を周りの大人から強いられる。
強い磁石は、いろいろな引力に敏感に捕まり、舵取りが難航する。
行きたい方向へなかなか行けない。
あっちへふらふら、こっちへふらふら。
寄り道ばっかり。
あっちの方向に行きたいのに、何かの引力に引っ張られて、思うように進めない…ってね。
だけど、エネルギーは沢山あるから、なんとか動き回って、行きたい方向へいける。
どんなに回り道をしても、ちょっと危険な目にあっても、エネルギーが沢山あるから何とか切り抜けられる。機動力もある。
そう、子どもは有り余るほどのエネルギーをもっているから。
だから、色んな引力に引っ張られても、そのエネルギーで、何とか修正が効く。
そして、行きたい方向をまだまだ選択できる。
進んでいきたい方向に向かって、遠くに遠くに突き進める可能性を持っているんだ。
でも、時々「私の進むべき方向ってどっち?」って狼狽える。
進むべき方向の大きな選択もしていかなきゃいけない。
子どもは大忙しなんだ。
そう…子どもは大人より持っているものは沢山ある分、大忙しだ。
じゃあ、大人が子どもよりもっているものは?
大人が子どもよりもっているものは、「経験」「知識」「要領の良さ」・・・かな?
あと、子どもより生きている時間が長い分、子どもより時間を短く感じるから、「長時間退屈に耐えれる持久性」とかもそうかも。
感受性は、感受するものの種類にもよるかもしれないけれど、やっぱり若い方が断然持っていると思う。
でもね、感受性が弱くなっている大人って、そんなに悪いことじゃないって今は少し思う。
磁石の引力が弱くなったってことは、それだけ、周りの余計な引力に惑わされずに済むってこと。
余計な引力に惑わされなくなるってことは、自分の進みたい方向にスルスル進みやすくなるってこと。ノイズが減るってこと。まーその分、持っているエネルギーも少なくなっているので、そことの兼ね合いが大変なのだけれど。
とにかく、大人は身体的な欲望が弱くなった分、その引力に惑わされなくなる。
大人をお菓子で誘惑して車に誘う誘拐者なんていない。
その身体的な欲望が弱くなった分、そのことによる楽しさは減るけれども、人間には高次的な欲望が残されている。
身体的な欲望が殆どなくなっても、人間には知的好奇心がある。知的好奇心は年老いた人間の最後の「欲望」の砦かも知れない。
だから、人間は大人になってからの方が色々な事を学びたくなるのかもしれない。
若い時には当たり前のようにもっていた身体的な欲望が失われつつある今、代替となる欲望を追い求める為に。
それを考えたら、若い頃は勉強を後回しにしたいのは当たり前だよね。だって、知的好奇心以外に楽しめる欲望を山程もっているんだもん。
その欲望がいつまでもいつまでも、今のままあり続けるって信じてやまない、眩しい若者たち。
だけど、年を重ねた大人はそれは当たり前じゃないって知っているから。
だから、やっぱり「今」よりも「未来」のために、勉強の大切さをくどくどと、若者に説くんだろうな。
そして「強い感受性」「可能性」という重い重い荷物を若者が持っているという苦しみを…いつのまにか忘れていくんだろう。
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