私は何のためにブログを書いてるか。
今まで、いろいろブレてブレてここまできたけれど、ようやくなんとなく芯が纏まりつつある気がする。
私は「私の見えてる世界」を他の人に何とかして見せたいんだな。
学校の先生みたいに「知識を教える」って立場では決してなくてさ、ただただ、「自分が見えた世界」を忠実に見せたいんだ。
「私以外の人間」は「私」には決してなれない。
だからさ、「私」という人間の中は他人からしたら「未知の世界」ってわけ。
それは、私からみた「他人」も同じで「未知の世界」が他人の中には広がっている。
中・・・つまり精神的な世界。
みんな、みんな神秘的な存在であり、中に宇宙のような世界をもっている。
だけどさ、それを、みんながみんな表現を試みたり、しっかり向き合って見つめようとしているわけじゃない。
「実際にもっている」のと、「それを普遍的に共有できる形に表現できる」のは、まったく異なる。
それを持っていることを「自覚する」のと「自覚しない」のも、まったく異なる。
例えば、音楽に感動する場合が分かりやすい。
「ある音楽に感動できる」ということは、自分の中に、共鳴する「何か」を持っていたってこと。
「共通する何か」をもっていたからこそ、「感動」できたのだ。
あと、村上春樹の「ノルウェイの森」という小説もいい例だと思う。
普遍的に、ある種の人間が持っている細かい感情を村上春樹の独特な表現方法で忠実に描写しきったからこそ、きっとこんなにも国を超えて、心を動かし愛される作品となったのだろう。
そう、みんな共通して何か「持って」いる。
自分で気づかないうちに「持って」いる。
その「持っているもの」を、分かりやすい形に、自らの中から引っ張り出して、外に持ち出すことができる。
そして、それを自分以外の人間と共有できるわかりやすい形に表すことができる。
それが「表現すること」なんじゃないかな。
シンプルな形にすることはとても難しい。
今でこそ当たり前に「地球」と言われたら頭に思い浮かべる、あの球状で青い典型的な形も、人間がそのイメージを手に入れるまでは相当大変だった。
本質をシンプルな形で抜き出すことは想像以上にとても難しい事なんだ。
表現者に必要な能力は、きっと、本質をしっかり見抜いて、他のノイズに惑わされずに、しっかりそれを見失うことなく、見続けることのできる力だと思う。
そして、見続けるだけじゃダメだ。俯瞰的に全体を捉え、そして、「分かりやすい形」にできる能力。
「分かりやすく伝える」
それは、教師が「難しい内容を子どもでも分かるように説明する能力」と似通った部分もある気がする。
自分がしっかり理解し、かつ、対象者に分かるように表現する能力がないとできないことだ。「分かりやすい形で伝える」ということは。
それに、表現することはきっと一方的なことじゃない。表現することで、得られる知見もきっとある。
私は他人は「未知の世界」と書いたけれど、自分の中の世界を表現して、それに感動した人がいるとしたら、それは、「共通していた」ってこと。
私が持っていたものを他人も持っていたってこと。
私という人間は決して他人にはなれないけれど、「表現」を通して、他人の世界について知ることができる。
他人の中に、自分と共通する部分を発見できた時、精神世界の真理に少し近づける気がする。
精神世界を探求できる気がする。
「全てに共通すること=真理」だと思うから。
私の目指す「表現者」は、自分の精神世界から「何か」を「分かりやすい形」にして取り出すことができ、かつ、その作業を通して世界を探求することだと思う。
それができるようになる為に、自分の中から「何か」を「分かりやすい形」として文章で取り出す練習をブログでしているんだ。私は。
そして、一生懸命、同じようにそれを試みている素敵なブロガーさんは沢山いて、その方のブログを通して、私は未知の世界を覗くことができる。
私は、巷に溢れた、即時的で実用的な利益のためだけの情報よりも、そんな「リアルな未知の世界」を見せてくれる真の「表現者」が書いたブログの方がずっと、私にとって有意義な情報なのです。
だから、私もそんな有意義な情報を提供できる、ブログを書きたいなって思う。
こんな感じのことを、今のところ私はブログに求めている訳です。
ブログで自分の中から「自分が今もっているもの」を取り出して、さらに、同じ事を試みている他人のブログを読んで、世界について理解を深めたい。
そんなことを今のところ本気で思っています。