もし、芸術の神様がいるなら私はその神様に愛されたい。
なんかさ、自分から「愛されたい」って言ってる人って大体、なんだかズレてる感を醸し出している。
悲劇のヒロイン的世界にハマっちゃって、抜け出せない感が漂ってるんだよね。
それがわかっていても、ついいっちゃう。
愛されたい。
愛されたい?
愛されるためには、それに見合う自分にならないといけない。それはわかってる。
なんかね、音楽に愛されてるなーとか、文章に愛されてるなーとか、絵に愛されてるなー、っていう人たちっているじゃん。
「はい?何言ってんだよ…」って思う人もいるかもしれないけれど、分かる人にはわかりますよね?この感じ。
本当、「この人は、音楽の神様に愛され過ぎてる」とかさ…頭の中にぽっと名前が浮かびませんか?例えばさ、私の場合、頭の中でぽっと「宇多田ヒカル」や「椎名林檎」や「ミスチル」の名前が浮かびましたね。
王道過ぎて引く方がいたらごめんなさい…。
でもわかりやすいでしょ?音楽に愛されてる人の代表として。
「あーゆうふうになりて〜」「ミスチルみたいになりて〜」「椎名林檎みたいになりて〜」っていう人々っているじゃない。
でもね、「〇〇になりたい」と目指す先が固有名詞になっちゃ、道を見失っちゃうのよね。
音楽に愛された彼らはね、「自分」と「音楽」を上手く繋げることができた。つまり自分の世界を音楽で表現することに成功した。
自分に集中した結果なのだから、決して他人に対象をおいていない。
さらにね、繋げるだけじゃだめだ。繋げるだけでは自分の世界の広がりが止まった時、音楽もつくりだせなくなる。
繋がった上で、自分の世界をつくり続けないといけない。進化し、変化し広がり続けなければそれはできない事だ。
芸術の神様に愛されるには、決して受け身ではなく、自らの変化、拡大が条件だったんだ。
愛されるためには、自らが自らを創造するしかない。
自ら停滞している人を愛するものなんていない。
「愛される」という状態は決して停滞からは生まれない。
愛されたいのなら、自らを自らで動かさないといけない。
変化し続けようと頑張って、時にはもがいて、自分で自分のストーリーをつくり続ける人が愛される可能性をえられる。
そのストーリーが音楽の形だったら音楽の神様に。文章の形だったら文章の神様に。絵だったら絵の神様に。振り向いてもらえる。
「愛されて〜な」ってずっと受け身の立場でじっとしていていつか愛されるなんてありえないでしょ?
そんなに自分を買い被ってはいけない。
「愛される人」っていうのは、行動し続けた人なんだ。何かを自分以外の外部に与え続けた人なんだ。自分を拡大するということは、外部に侵入していくことだから。
「愛されたい」という気持ちを忘れるほど、自分自身の拡大に集中し続けた過程で、前触れなく「ぽっ」と愛されていることに気づく時がくる。
音楽の神様に愛されたいのなら、自分も音楽を愛してアピールし続けないと。
文章の神様に愛されたいのなら、自分も文章を愛してアピールし続けないと。
絵の神様に愛されたいのなら、自分も文章を愛してアピールし続けないと。
もしかしたらさ、いくらこちらが愛したって、振り向いてくれないかもしれない。一生片想いかもしれない。
…で、ここまで書いていて気付いた。
「芸術の神様に愛されたい」とは自分がうみだした音楽や文章や絵と自分の精神が一体化したい、という願望だ。だけど芸術はあくまで手段に過ぎない。
原動力は自分の精神だ。
私は芸術の神様に愛されたうえで、その芸術を通して人から愛されることを夢みているんだ。
愛されるには愛さないといけない。
「愛したい」という精神の力が必要なんだ。
つまり、「芸術の神様に愛されて、芸術で人を愛すること」が人に愛されるには必要だ。
「愛する」とはポジティブに対象に関心を寄せることだから。
相手によい刺激を与えることだから。
音楽の神様に愛されている人は音楽を通して人を愛し愛されている人だった。
文章の神様に愛されている人は文章を通して人を愛し愛されている人だったんだ。
絵の神様に愛されている人は絵を通して人を愛し愛されている人だったんだ。
「私は芸術の神様に愛されたい」と文頭で述べたけれども、それは掘り下げると「芸術をとおして人々を愛し、愛されたい」ということなのだろう。
「愛されたい」とばかり主張している人が何だかズレている感じがするのは「愛する」ということ抜きで「愛される」ことを望んでいる面が垣間見えるからだ。
考えてみればそうだ。愛されている芸術家はみんな外部に向かって芸術を通して愛をばら撒いているではないか。
それは普遍的に?
沢山の人々に?
全人類に向かって?
それとも少数の一部の人に?
ほんの一部の人だって、全人類だって、自分が自分以外の世界に刺激を与えて変化をもたらしたことには変わりないじゃないか。
インプットは刺激を受けること
アウトプットは刺激を与えること
購読しているブログさんから得たこの文章が最近最も私の芯に響いた。
そうだ。みんな心地よい刺激が欲しい。
それを芸術を通して多くの人々に与えれる人間が、多くの人々に愛される芸術家ってわけだ。
その刺激がポジティブかネガティブかは人によって感じ方が異なるからさ、影響力が強い人にはさ、必ずと言っていいほど、アンチはいる。
それを覚悟の上でさ、自分自身の世界を広げていく覚悟があるか?
私は躊躇しているから未だに自分の透明の殻を突き破れない。
きっと殆どの人がそうだ。
変化を恐れてる。愛される分、憎まれることもある変化を。
いつかその殻を突き破ってさ
そして広大にキラキラと輝く青空へ潔く翼を広げて飛び立って見下ろす世界をみてみたい。
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