レオナルド・ダ・ヴィンチの名言で、こんなのを見つけた。
詩人は目に見える表現の中では画家よりはるか下に見られ、目に見えぬ表現の中では音楽家よりもはるか下に見られる。
確かにその通りだ。
詩に限らず、「文章」のみで伝えるには、相手の姿勢にかなりかかっている。
要するに、そこに文章を存在させるだけでは、なーんにも相手に伝わらない。
相手がその文章を読んでくれないと。
しかも、ただ字を上辺だけ読むだけじゃダメだ。意味を汲み取って読んでくれないと。
そのためには、相手の積極的な姿勢が必要不可欠だ。
「よし!読むぞ!」っていう熱意が必要なわけ。
だからさ、「この文章は読む価値がある」って読み手がまず思わないと、なかなか「よし!読むぞ!」ってならないよね。
「読んで理解する、想像する」って行為ってかなりエネルギーをつかうじゃん。
「頑張って読んだけど、読んだ価値なかった」って誰もそんな羽目になりたくない。
そんなに、みんな暇人じゃないし、エネルギーが有り余っているわけでもない。
例え、その文章が、「すっごいこと」を表現してたとしてもさ、読み手に理解不能な専門用語や表現方法やらをバンバン使ってたんじゃ、だれもその「すっごいこと」に辿り着けない。
ゴールに辿り着くための集中力の糸を切る障害物が、いーぱいあるんだ。
文章はとにかく最後まで読んでもらわないと、何にも始まらない。
その点、絵や音楽は何て分かりやすいんだろう。
絵はそこにあって、視界に入るだけで、何らかのイメージを伝えれる。
音楽が流れているその場にただいるだけで、その人に何らかの感情を呼び起こすことができる。
「分かりやすい」っていうのは、すっごい強みだ。武器だ。
だから小説より漫画、漫画よりアニメが強い。
詩だけより、詩に音楽がついている方が強い。
強いっていうのは、「相手に伝わりやすい」っていう点でだ。
伝わりやすいっていうのは、ある意味相手にもやさしい。
相手の省エネにも繋がる。
文字だけの表現じゃ不親切だ。
何か本当に伝えたいことがあるのなら、それを伝えるのに適した色々な表現方法を使うのを試みないと。
文字、絵、図、音楽、数式、プレゼンなどなど。
伝わりやすいなら、自分が使える武器はどんどん使うべきだ。
肩書きだって武器になる。
だけどね、「伝わりやすい」っていうのも、弊害がある。
それは、押し付けがましいってこと。
別に見たくもないのに、聞きたくもないのに、そこにいる相手の頭の中にドカドカ入っていく。
図々しいんだ。
その点、文章は押し付けがましくない。
相手の同意をちゃんと得てから、頭に入っていく。
相手(読み手)が「入っていいよ」って気構えがないと、頭の中に入っていかない。
そして、相手が受け身の態度でも何も与えてくれない。
それが、文章の弱味でもあり強味でもある。
だからある意味ガチンコ勝負だ。
書き手と読み手の心からの歩み寄りがそれを可能にする。
文章を読んでほしい書き手と、その文章を読みたい読み手の動機が一致しないと。
そして、もしそれが相思相愛の出会いだったら、本当に素敵な心の友になれる。
だからね、私が「文章」というツールを擬人化するとしたら、純粋で、一途で、飾り気のない、質素で職人気質で、いぶし銀な感じ。
「わかる人にわかってもらえたらそれでいい」っていう感じ?
ただね、何回も言っているように、一見、魅力が分かりにくいから、損してる。
本当はすっごい能力を秘めているし魅力的なのに、無口だし、表情にでないから、なかなかみんなその魅力をわかってくれない。
ホント損してるよね。
詩なんて特にそう思う。
いくら、すごいことを詩で表現できたとしても、なかなか気付いてもらえない。
でも、誰か一人でもその世界に気づいてもらえたら、物凄い強い光を相手に与えれると思う。
そして、一人でも強い光を与えれたのなら、その作品の存在の意義は確かにある。
創作物の価値なんて、正直、目には見えない。「認知度」と「創作物の価値」は比例しない。
美しいものは、目に見えなくても、数値化できなくても、美しいんだ。
だけど、文章だけの力は普及力の点ではやっぱり弱すぎる。
だから下にみられがち。
文章以外の武器(絵や音楽など)も駆使できるのはやっぱり強いわーって思ったのでした。
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